僕がシャッター商店街にお店を出す理由

商店街活性化のリアルタイムドキュメンタリー

意外と知られていない!?柳ケ瀬商店街の歴史

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 1889年~:始まり

 「柳ヶ瀬」という地名は、「カワヤナギの多い川の瀬」という意味があります。

もともとこの辺りは土地の低い湿地帯でした。

 

「柳ケ瀬」が町名として初めて誕生したのは1889年。

今から約130年前です。

 

しかし、すぐにお店が立ち並んだわけではありません。 

 

県庁の設置や鉄道の駅の敷設など、岐阜の市内が発展していくなかで、県庁と岐阜駅の中間に位置していたこと、新開地で土地の値段が安かったことにより、柳ケ瀬に徐々に人が集まるようになっていきます。

1920年代~:創成期

着物がファッションの時代、柳ケ瀬の将来性に呉服店が目をつけます。

様々な呉服店が開業し、柳ケ瀬は「呉服の街」となっていきます。

呉服店の進出はお互いの競争を激化させ、客が客を呼ぶ商店街の礎になりました。

1950年代~:繁栄期

この時代、活動写真(映画)がブームとなり、柳ケ瀬は「映画の街」として栄え始めます。

ピーク時は12の映画館が柳ケ瀬に存在していたようです。

 

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-当時の柳ケ瀬の住宅地図(赤いところが映画館)-

 

コンビニ並に映画館があります。

 

その中でも最大の劇場である岐阜劇場(番号1)は豪華さと広さで「陸の竜宮城」と呼ばれ、1日の最大入場者数は5000人を超えました。

 

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-岐阜劇場の外観-

1960年代~:全盛期

アーケードの完成を皮切りに、柳ケ瀬は全盛期を迎えます。

 

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-アーケード完成-

 

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-クリスマス商戦-

 

合成写真ではありません。

 

日曜祭日など休日ともなれば、柳ヶ瀬のメイン通り(柳ヶ瀬通り、日ノ出町通り、劇場通り)は、前の歩行者を追い越すのが容易でなく、時には肩がすれ合うような混雑ぶりでした。

 

さらに、1966年には美川憲一が『柳ケ瀬ブルース』という柳ケ瀬をモチーフにしたCDを発売します。

 

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-柳ケ瀬ブルース-

 

当時は一宮や名古屋からも柳ケ瀬に遊びに来る人が大勢いて、お店も1000以上あったと言われています。(現在は約400店ほどに半減)

 

しかし、1970年代に入り、高度経済成長が止まり、柳ケ瀬の繁栄にも陰りが見え始めます。

1980年代~:衰退期

日本経済が低成長期に入り、郊外人口の増加、市中心部の人口減などの社会情勢の変化もあり、柳ケ瀬は徐々に衰退していきます。

 

そこに拍車をかけたのが、1999年の近鉄百貨店の閉店です。

 

柳ケ瀬の2大シンボル(高島屋と近鉄百貨店)のうちの1つを失うことになります。

2000年代~:迷走期

大型店の閉店はさらに続きます。

 

2002年 長崎屋岐阜店閉店(今で言うドンキ)

2004年 岐阜センサ閉店(今で言うルミネ)

2009年 岐阜メルサ閉店(今で言うパルコ)

 

これを見て「懐かしい」と思った方は、紛れもなく岐阜人です。

 

なんとかこの状況を打開しようと新たな一手を打ちます。

 

 

やなな(柳ケ瀬商店街非公式キャラクター)の誕生です。

 

 

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。。。。

 

 

 

突っ込みどころ満載のやななですが、2013年まさかの「電撃引退」。

 

その後も、イベントの開催やお化け屋敷の設置など、様々な工夫を凝らしますが、人は戻って来ません。

2010年代~:転換期

絵に描いたようにシャッター商店街への道を歩んできた柳ケ瀬。

しかし、この頃から少し変化が見え始めます。

2014年、あるイベントが開催されたのです。

 

つづく